ななころび

なんどでも立ち上がろう。

週末だからおじいちゃんの話をしよう。

おはようございます😃ななころびです。

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※田舎ってこういうのありますよね笑

 

今回の記事を投稿するにあたり、内容が内容なのでいつ出そうか、出していいものなのかと迷っていました。

僕は説明が下手なのでどう伝えたらいいのかも考えものでした。

 

僕の中で【何のために、誰のために、どのように】が一旦整理できたので、皆さんがゆっくりされている日曜日に投稿しようと思います。

 

 

今日らおじいちゃんから学んだ事を記事にします。一人で考えるより、これを読んだ方が何か気づきがあれば幸いです。

 

 

今年初めにおじいちゃんが亡くなりました。

 

92歳でした。

 

年末年始に餅つきを手伝いに父方おじいちゃんおばあちゃんの家に伺った時は「元気かぁ!?」「幾つになったかぁ?」「大学はどうかぁ?」僕は既に社会人なのですが、ここ数年は大学生と認識しているようでした。年齢もあって昨年から攻撃型の認知症で大変!と母聞いていたものの、会って話した感じでは普通でした。

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※年末の餅を丸める時の写真

 

僕は社会人だよ。人材会社で営業をやってるよ元気だよ。それからじいちゃんにも元気?と話をしたとのを覚えています。

 

見た目は至って普通のおじいちゃんです。亡くなる1週間前に受けた検診も大きな不調は見られなかったそうです。

 

そんなおじいちゃんが急に亡くなったと聞いて、理解に時間がかかりました。死因は老死に近かったそうなので、病気か何かで何年も長く苦しまずにあの世へ旅立っていったのは幸いなことだと思います。このご時世、三大疾病で亡くなることが多いですから。

 

おじいちゃんは本当元気で、家族の反対を押し切って、90歳を超えても畑仕事、ゴルフ、車運転などやっていました。車は古い軽トラのマニュアルなので、ものすごく運転が難しく、僕はエンストばかりしていました。クラッチとアクセルがスカスカのベコベコで全く2つが噛み合わずエンストになったのを覚えています。

 

そんなおじいちゃんですが、これから僕が語り継がなければならない印象的な話があります。

少し長くなります。

 

それは大学生のころ、おじいちゃんが「お前と同じくらいの歳の頃はなぁ!」と自身の若かれし頃の話を聞いたことです。

 

1945年8月5日当時飛行機の整備士をしていたおじいちゃんは、上司から広島にある三菱の整備工場?で新しい飛行機のエンジンをどこかへ移動する仕事を任されたそうです。その日の夜に向かわないと間に合わないと言うことで、夜中から広島市内に向かう電車に乗り込んだそうです。

 

季節は夏。夜は蒸し暑く、窓は開けたままにしたかったそうだが、風が強く外から入ってくる砂埃で息苦しく、カーテンをしていたと語っています。

 

翌日の朝、日差しが暑いのでカーテンを閉めたままの電車に揺られながら、広島市内にもうすぐ着くという時に、おじいちゃんはとてつもない衝撃に襲われたと言います。大きな衝撃で、電車ごと吹っ飛ばされ、凄まじい熱と爆風を感じたそうです。電車も枠組みの頑丈なところだけ残ったそうです。1945年8月6日午前8時15分広島に原爆が投下されたのです。幸いにも広島市内に入る少し前だったこと、電車内に居たことと、閉めていたカーテンが直接の熱と爆風・放射線をある程度遮って、間接的なもので済んと話ていました。

 

電車内で揉みくちゃにされた後、どうにか外に出ると辺り一面の景色が変わり、建物も人も無くなって辺り一面焼け野原だったと言います。電車はぺしゃんこになっていたらしいのですが、カーテンを閉めていないところの人たちは説明できないくらい溶けていたと言います。

 

俺はカーテンばぁ閉めたったけんよかったたい、あれが無ければ死んどる。※じいちゃんの方言です。

 

一応上司の言う通り工場に歩いて向かったそうですが、もちろん工場は跡形もなくなかったそうなので、形式だけで終わり、街を見て回ったそうです。街とは程遠くい広島市内で、歩けば黒く焦げた人のような形をした方が水をくれ。助けてくれ。と助けを呼んでいたと言います。皮膚が解けるようにただれ落ちる人、人や物の焦げる匂いもあったそうです。

 

地獄よ。

おじいちゃんはポツリ呟いていました。

川には水を求めた人が重なり溶け合い積み上がり、凄かったらしいです。また記憶があいまいですが黒い雨?が降り、雨に打たれた方でさっきまで話していた方が、急に倒れて事切れることも多かったようです。

 

修学旅行先が長崎だったため、原爆の悲惨さは写真や動画で学びました。正直に言うと、教科書の出来事だと子供の頃はそう思っていました。はだしのゲンを読んでも同じような昔のことと片付けていました。それが身近に感じ、ゾッとして、鳥肌が立って聞いていたことを覚えています。

 

その後、おばあちゃんが「もうその話しはいい。」そういって話が終わりました。後日談ではありましたが、国から被曝した方に向けてお金?治療費?のようなものを受け取れるはずが、拒否をして家族親戚一同に怒られた話から、防空壕に入って爆撃を逃れたとか、防空壕掘った話しはちょろっとしてくれました。

 

それから一度も戦争の話を聞けませんでした。軽々しく聞ける話ではなく、おじいちゃんがどんな思いを持っていたかわからないからです。被爆を経験していることをどう思っていたのかも知りません。

 

最後に。

読んでくださりありがとうございます。

戦争や原爆を身近に経験しているとは思いませんでした。この話は僕だけではなく多くの日本人が学ぶべき過去なんじゃないだろうか、と個人的に思っています。

 

若造が何をいうかと思われるでしょうが、大きな話をすれば、これから先がわからない事ばかりです。

 

宗教観での大きな争いが今も続いています。

同盟国と呼ばれる国のリーダーは不動産のボスで変態です。最近亡くなられたホーキング博士は100年後、人間はAIによって滅ぼされると言い残しています。世界の人口は増えているのに日本は急激に減少し始めました。不安定な感じです。

 

重い話ですみませんでした。

今日も読んでくださりありがとうございます。